【雑感】インターネットは本来、牧歌的な風景が広がっていた
年末に記事を読んでいると、ふと以下の記事が目についた。
内容は、インターネット上では互いの立場からしか発言せず、自分と異なる意見には、攻撃的になる。
結果、分かり合えない世界になってしまった、という内容だ。
良くある意見だが、テキストサイトや2ちゃん黎明期からネットを触っていた僕は、インターネットが元々分かり合えない訳では無いと思っている。
■インターネットが"ネット住民"のものだった頃
インターネット初期は「ネット住民」という言葉に代表される、一くくりのコミュニティが存在した。そこには細かい衝突こそあれ、基本的には共通の文化や言語が存在し、今思えば牧歌的な風景が広がっていた。
それは、インターネットはあくまでインターネットという"独立したコミュニティ"だったからだ。
1つのコミュニティであるからこそ、ある意味では村社会的な同調圧力があった。
※「ギコ」や「モナー」等のキャラクターや、ネットスラングはその表れだろう。
■ネットの普及が、現実社会との垣根をなくした
普及しきったネットは、既に「現実の拡張ツール」となり、現実の人間関係や思想が持ちこまれた。
その結果、そもそも「分かりあえない人間達」がそのままネットに入ってきた。
それに拍車をかけるのが「リコメンド」という「見たいものを見る」機能に加え「ブロック」という「見たいものをみない」機能だ。
自ら発信する内容に賛同する人間や反応のみが帰ってくる。更に自分が正しいと思うようになる。のスパイラル。
「元来、分かり会う気の無い人たち」が「分かり会わなくても楽しく過ごせる」アーキテクチャをもったのが、今のインターネットと言えるだろう。
僕が、前述のブログ意見に違和感を持つのは、あたかも「インターネットなら分かり合える道具になるハズ」という前提を元に書かれている様に見えてしまうから。
既に過去には戻れない。インターネットは、現実の拡張ツールであり延長線上にある。
分かり合うという意思を持たないといけないのは、あくまで我々「人間」なのだ。